若き日の織田信長

前期の馬上像の周到な研究が結実した自由な姿態の馬上像。
馬が空中に飛ぶようになってから、また、それなりの苦心の連続であったと回想する。
繰り返して作られる男性像、作者のいわばますらおぶりの系譜につながるものは、東京美術学校彫刻家における敬愛する二人の師のうちの一人、白井雨山にでたものであろう。
またそれは、明治期に教養の根をもつ一般の傾向でもあった。
一方のたおやめぶりのそれは、もう一人、沼田一雅を忠実に継承するするものと思われる。これは、彫琢の糸の縦横となって交互のサイクルに深められて表れてきており作者80歳を超えてなお、再び青年像を作ろうとする意志はより明確になっているようである。

引用:中村傳三郎編 北村彫塑大成

種類 肖像
大きさ H200cm W290cm
素材 燐青銅
原型作者 北村 西望
設置場所 岐阜県岐阜市 岐阜公園
設置年度 1998年1月
作成期間 4ヶ月

人物ストーリー

天文3年(1534年)5月、尾張国の戦国大名・織田信秀と土田政久の娘の間に嫡男として誕生。幼名は吉法師(きっぽうし)。

信長の生まれた「弾正忠家」は、尾張国の下四郡の守護代であった織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、清洲三奉行という家柄であった。当時、尾張国では、守護である斯波氏の力はすでに衰えており、守護代の織田氏も分裂していたのである。こうした状況下で、信長の父である信秀は、守護代・織田達勝らの支援を得て、今川氏豊から那古野城を奪う。そして、信秀は尾張国内において勢力を急拡大させていた。

信長は、早くに信秀から那古野城を譲られ、城主となっている。『信長公記』によれば、信長には奇天烈な行動が多く、周囲から大うつけと呼ばれたという。なお、人質となっていた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期の頃に知り合っていたとも言われるが、可能性としては否定できないものの、そのことを裏付ける史料はない。

天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、三郎信長と称する。天文16年(1547年)には今川方との小競り合いにおいて初陣を果たし、天文18年には尾張国支配の政務にも関わるようになった。

天文17年(1548年)あるいは天文18年(1549年)頃、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、その証として道三の娘・濃姫と信長の間で政略結婚が交わされた。

斎藤道三の娘と結婚したことで、信長は織田弾正忠家の継承者となる可能性が高くなった。そして、おそらく天文21年(1552年)3月に父・信秀が死去したため、家督を継ぐこととなる。信長は、家督継承を機に「上総守信長」を称するようになる(のち「上総介信長」に変更)。

『ウィキペディア日本語版』. 2020. 「織田信長」. 最終更新 2020年7月23日 (木) 22:03 UTC.

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